賞賛の難しさ
FirstUPDATE2014.5.27
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昨年のことですが、アタシはTwitterにもここにも「あまちゃん」を褒めるテキストをずいぶん書きました。

何も「あまちゃん」だけではなく、古くは今現在の評価が難しいダウンタウンから、当時から一過性のものだとわかってたドラマ版「電車男」、ある意味普遍的な黒澤映画など、枚挙いとまがないほどいろんなものを褒めてきました。
しかし対象がなんであれ、これらの賞賛意見を一刀両断するのは容易い。
「気持ち悪い」「世間に流されてるだけ」「ステマ」「何か宗教みたい」「こういう人間は簡単に騙される」、エトセトラエトセトラ・・・。
ま、他人が楽しんでいることを否定して、さも自分が上にいるアピールは中二病の一言で片付けられますし、何でもかんでも罵倒することが人間の本音と思ってる時点でまったく論じるに値しない。

そんなことよりもっと根源的なこと、つまり賞賛は批難より難しいということがわかってないんじゃないかと。
この場合の賞賛(ポジティブ)や批難(ネガティブ)は、先に挙げたような低レベルなものではなく、それなりに根拠のある、論理的なものの話です。
はっきりいって物事をネガティブに捉えて説明するより、ポジティブに捉えて説明する方がはるかに難しいはずなんです。

野村克也の名言に「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがあります。早い話が「勝因より敗因を見つける方が容易い」ということです。
失敗した時にどこのポイントから失敗の方向性に流れたか、これとて簡単ではありませんが探ることは可能です。
しかし成功の分岐点を探ることは容易ではない。相手の失敗ポイントが必ずしも自分側の成功ポイントかといえば、違う。もっといえば、失敗ポイントはひとつあれば成立するのにたいし、成功ポイントは複数、それも相当入り組んだ形でしか存在しない。
そんな難しいことをするより、失敗ポイントを改善することが成功への近道、というのは、ま、やり方としては正しいのですが、これを推し進めすぎるとこじんまりとした無難な方向に向かってしまって、失敗とまでいえないけど成功とは程遠い、てなことになりがちなんだけどね。

これはたかがドラマの批評とて同じです。
そのドラマが何故失敗したか、これはポイントを見つけ出しやすい。ところが何故成功したかを「批評という形で指摘する」のは困難すぎる。
昔、草彅剛が主演した「恋におちたら」というドラマの失敗の理由をあげつらったことがあります。その当時からわかってたのですが、本当はあんな長文にする必要はなかった。ひとつだけバシッと指摘すれば済む話だった。ただ失敗ポイントが相当数あったことも事実なんですが。

「あまちゃん」は間違いなく成功したドラマの範疇に入ります。でも「何故成功したのか」を挙げるのは難しい。
キャスティングが良かった。クドカンのシナリオが良かった。演出にもキレがあった。小ネタが良かった。音楽が良かった。
そりゃね、いくらでもいえるのですよ。キャスティングが良かった、を分解してみても、主役の能年玲奈が良かったからだ、とか、いや小泉今日子のおかげでしょ、とか、もう無数にいえる。
そしてそれらは間違っているわけではない。
だからね、むしろ本一冊まるまる費やして、だから「あまちゃん」は成功した、と語るのは、まあ簡単なんです。
本当に難しいのは、短い文章で、極端にいえばTwitterに書ける程度の長さで、成功の要因を語るっての。これは難しすぎる。
しかもこれは当たり前ですが、読んだ大多数の人が腑に落ちなければならない。
罵倒なんて簡単ですよ。仮に一切ドラマを見てなくても余裕で書ける。

「あまちゃんとか糞。見てないけど見なくてもわかるし」

これで済んでしまう。
楽だし、さも自分が見巧者になった気分になれるし、たしかにいいよね。
もちろんいい事ばかりじゃないけどね。果てしなく馬鹿に見えるっていう致命的な欠点があるもん。







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