タモリは何で赤塚不二夫のことを「不二夫ちゃん」と呼ぶようになったのか気になって夜も眠れない。
先日NHK教育で赤塚不二夫の特集をやっていましたが(現注・2009年3月27日放送「先人たちの底力 知恵泉」の赤塚不二夫特集のことだと思う)、結構面白かった。切り口は珍しくもないけど、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちの鼎談は貴重なものだったと思う。
他にはみなもと太郎が「赤塚不二夫は家庭漫画の人」と言い切ってたのは面白かったし、実際そうじゃないかと思う。
番組では当然のように「天才バカボン」が中心で、それはいいんだけど、ナレーションが「馬鹿なボンボンを主人公にした・・・」といっていたのは少しだけ違和感があった。
とはいってもアタシは「バカボン」のネーミングについて、そっちの方が正しいというか、仮にダブルニーミングだったにせよ「馬鹿なボンボン」の方の意味合いが強かったんじゃないかと思っているんです。
というのも晩年、赤塚不二夫は「本当は「天才バガボンド」にしたかったが、編集者にわかりづらいと反対された」と語っていたからです。
たしかにパパはバガボンドそのものなんだけど、どうも後付け臭い。それに、あいまいな記憶だけど、構想段階では馬鹿のギャグと天才のギャグ両方を描こうとしてたはずで、最初から「天才」と「馬鹿」というキーワードはあったはずなんですよ。
もうひとつ、やはり番組の中で「途中で主人公が入れ替わった」とあったけど、これも怪しい。
「おそ松くん」や「もーれつア太郎」などはたしかに途中で主人公が入れ替わった。しかし「天才バカボン」の場合、最初からパパとバカボン(初期の構想ではハジメちゃんも)が主人公だったような気がするんです。
要するに「天才バカボン」は白痴の親子の物語なのです。いや、白痴の父親VS天才の息子の構図だったといえばいいか。
設定だけを聞いていると、あんまりギャグ漫画っぽくない。ギャグ漫画にしてはあまりにも設定がもの悲しい。むしろ人情物風だし、初期はそんなニオイもあった。(余談だけど、子供の頃赤塚不二夫に熱中したといわれる松本人志にその影響を見ることができます。もの悲しい雰囲気の中で展開される「トカゲのおっさん」など赤塚漫画寸前ですよね)
この辺が赤塚不二夫の漫画の真骨頂なんですよ。
少なくとも「天才バカボン」の頃までは、ギャグ漫画には違いないのだけど、扱い次第でどんな風にもなる、という懐の深さがあった。
人情物になるのは当然だし、少しピンクの方向に振れば(つまりパパの関心事をエロに向ければ)、もう十分エロ漫画にもなる。
しかしどんなジャンルで読みたいといえば、やっぱりギャグ漫画として読みたい。そう思わせるのが凄い。
つまりギャグ漫画にしかならない設定でギャグ漫画を描いてるんじゃない。でもギャグ漫画にしたからこそ、よりその設定が活きてくる、という。
そういうことができる、というかそんな発想があるのはこの人だけだったと思うし(松本人志はフォロワーといえるし、チャップリンの影響も見て取れるとはいえ)、鼎談の中でいってた通り、あと一本でいいから何か描いてほしかったと思う。
何だかサヨナラもいわずに去っていかれたようで。どうもそういう展開は赤塚不二夫という人には似合わないような気がする。
でも・・・知っているとか知らないじゃなく、自分はこう思う。
これでいいのだ。
神様ってのは残酷だな、と思うのは、赤塚不二夫って「命尽きるその瞬間まで周りにいる人を笑わせたい」と思ってた人なんですよ。 でも、結果はご承知の通り、長い植物人間状態から抜け出せず、結局そのまま息絶えたわけで。 たしかにさ、晩年にいくにしたがっていろいろメチャクチャになってたのは事実だけど、あれだけ日本の文化に貢献したんですよ。そんな人を、最後くらい、望み通りの終焉にしてあげても良かったんじゃないの? ねぇ神様、ねぇ。 |
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