ザ・ドリフターズについて語るとなれば、すなわちそれはいかりや長介について語ることに他なりません。
メンバー個々の能力があればこそあそこまでの存在になりおおせたことを否定するつもりはありませんが、ドリフターズは常にいかりや長介の<線>で動いていた。ドリフターズとしてやってきたことは、いかりや長介がやろうとしたことだった。いかりや長介が形を決めて、他のメンバーがそれに乗っかる。加藤茶以下のメンバーは、いわば肉付けをやったにすぎないとも言える。
ずっとそうしたスタイルでやってきたわけですから、いかりや長介の「考え方の軌跡」を辿ることこそ、ドリフターズ全体を辿ることになるわけでね。
さて、いかりや長介の軌跡についての前に、ドリフターズの略史から始めます。
ドリフターズの結成はあいまいなもので、ちゃんとした年表のようなものは存在しません。現在のドリフの前身である「サンズ・オブ・ドリフターズ」の結成が1957年といわれていますが、のちの主要メンバーは誰も所属しておらず、1960年に「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」と改名した後、1962年にいかりや長介がベースとして参加、さらに加藤茶が加入するに至り、コミックバンドとしての色を強めていきます。
その後、リーダーの桜井輝夫が引退して、いかりやが<禅譲>という形でリーダーに就任(同時にマネジメントを渡辺プロダクションに委託)、小野ヤスシらが脱退して、のちの主要メンバー(仲本工事以外)が揃った1964年が公式の結成年度になっているようですが、この経緯を見てもかなり複雑な過程を経たのはわかります。
ここで押さえておかなければいけないことは『桜井輝夫からリーダーを引き継いだ経緯もあって、いかりや長介がドリフターズの存続(と成功)に並々ならぬこだわりをみせた』、この一点です。
これをスルーしてしまうと、後々のいかりや長介の言動が理解出来なくなってしまいます。
私は元来、こういう種類の文章を残すほどの人間ではない。(中略)いまだに四流のミュージシャン、四流のコメディアン、四流のテレビ・タレントにすぎない。卑下でも何でもなく、それ以上であったことはない。(いかりや長介著「だめだこりゃ」より)
自分でも「卑下ではない」と書いてあるように、とくにドリフ結成当時のいかりや長介は、笑いも音楽も自信過剰どころか「ギリギリ、淵にしがみついるプロ」くらいの認識だったことは間違いありません。自著でも書かれているように、今では素人でも普通に使いこなす芸人用語「フリ」「ツカミ」というような言葉さえ知らなかったというのも本当だと思う。
こんな基本的な用語さえ知らない。だからこそ「自分たちは笑いの世界ではアマチュア」と自覚せざるを得なかった。しかし同時に「かといって純粋なバンドとしてやっていくだけの技量は自分たちにはない」というのも自覚していた。
音楽も笑いも四流だが、両方を同時にやれば、最悪「クレージーキャッツの亜流バンド」として、少なくとも食っていくくらいは出来るのではないか。
つまり「ドリフを存続させていくためには音楽を続けながら、同時に笑いを武器にするしかない」という結論に達し、ドリフの存在価値を見出していったのではないかと思うのです。
しかし、そこまでドリフターズというチームにいかりや長介が「こだわった」のは、やはり桜井輝夫からリーダーを禅譲されたという経緯抜きには語れない。
小野ヤスシらが造反を起こして、秘密裏でドンキーカルテットを結成した話は有名ですが、この時いかりや長介が発したと言われる言葉にすべてが詰まっていると思うのです。
「オレが辞めるから、ドリフターズを続けてくれ」
普通はこんなことは言わない。ましてやいかりや長介はリーダーなんだから、むしろ言わない方が良い言葉ですらあります。
結果、これほどまでの「ドリフターズ存続」への熱意は小野ヤスシらに撥ね付けられた。となると、唯一残った加藤茶とふたりだけで、ドリフターズを再建するしかない。
もちろんふたりだけで演奏は出来ないので、急いで補充メンバーを探した。そして連れてこられたのが「見た目(だけ)が面白いギタリスト」の高木ブー、「二枚目だがハゲでチンチクリンでピアノが弾けないピアニスト」の荒井注、「ソツのない、しかし面白みのないギターを弾かせたら右に出るものはいないギタリスト兼ヴォーカル」の仲本工事が加わったわけです。(網木文夫らは省略)
しかしどう考えても強力な補充とは言い難い。演奏も笑いも、これで大丈夫というメンツが集まったというような期待感はまるでなく、至急集めなきゃなんないという事情もあって、引っ張れるヤツを見繕って引っ張ってきた感が拭えない、そんな新生ドリフターズの船出でした。
しかし実はメンバーの中にダイヤの原石がいたのです。それは補充メンバーではなく、いかりや長介とほぼ同時期にドリフターズに加入した加藤茶です。
いかりや長介は腹を決めた。とにかく加藤茶を前面に立たせよう。自分は悪役、ツッコミ役に徹し、一番年下で二枚目の加藤茶がかわいそうに、また可愛く見られる工夫を施そう。
これでドリフターズというコミックチームの形が決まった。
コントではいかりや長介が最大の権力者で、あとの4人は絶対服従。中でも加藤茶が一番力がなく、いかりや長介の餌食になる、というパターンです。
これは先輩であり、尊敬していたクレージーキャッツとはまったくパターンが違う。クレージーがギャグ重視とするなら、ドリフは人間関係の笑いを軸に持ってきたのです。
しかも動きを極めて大切にした。つまりクレージーにはなかったドタバタを導入したわけです。
初期のドリフターズを生で観たという方にお話を伺ったところ「これはクレージーとはまったく違う。新しい」と感じたそうですが、すべていかりや長介が子供の頃に観た、ローレル・ハーディ(極楽コンビ)やアボット・コステロ(凸凹コンビ)などのドタバタ喜劇、とくに軍隊喜劇がベースになっていた。
つまり完全にいかりや長介の趣向に沿って笑いが作られていたのです。
またいかりや長介はクレージーキャッツとは決定的に違う味付けをドリフターズに加えた。
都会的でスマート、モダニズム溢れるクレージーとは対照的に、徹底した泥臭さを売りにした。いかりや長介の本によれば「大正テレビ寄席に出て、色物芸人と一緒にやったことが大きかった」と言います。
たしかに同じ事務所で、コミックバンドであり、コメディチームであることなどクレージーとの近似もある。しかしクレージーとドリフはまったく別物という評価も出始めた。
こうなると渡辺プロもドリフをプッシュし始める。実績を考えればやや尚早とも言える時期にグループ主演映画を作り、ドリフターズを大々的に売り出す作戦に出たのです。
ところがドリフターズの人気はなかなか上がらない。主演映画は併映の良さで観客動員は惨めにはならなかったものの、バラエティ番組ではどうも結果が出せない。
そんな最中、冠番組でコントをやっていた時にいかりや長介が大怪我をするというアクシデントに見舞われた。
一部でライバルと目されだしていたコント55号は日の出の勢いで、ドリフとは相当な差がついてしまったのです。
この時の、病床に伏したいかりや長介の心境は如何程だったのか。
たしかに「最低限食っていける」くらいは達成出来た。しかしクレージーの人気も凋落の傾向にあり、このままではドリフも引きづられて落ちていく可能性は十分にある。
病室でいかりや長介はコント55号の番組を見続けたといいます。コント55号にはない、ドリフターズにしか出来ないことは、ないのか。
もう残ったものはひとつしかない。たとえ四流であろうが、やはり自分たちはバンドマン上がりだ。となるともう音楽を売りにしていくしかない。
とはいえクレージーのようなスマートな音楽コントではなく、泥臭く音楽を大々的に使った番組・・・。
もちろんそれが「8時だョ!全員集合」に繋がるのです。
初期の「全員集合」は、後の、それこそ志村けん加入後と比べると圧倒的に音楽要素が強く、とくにフルバンド(森剛康とゲイスターズ。のちの岡本章生とゲイスターズ)を<奈落>ではなく<ステージに上げて>演奏させるというスタイルの番組は、紅白などの歌番組ではありましたし、クレージーキャッツもやってはいたのですが、毎週放送するバラエティ番組でこのスタイルを定着させたのは画期的でした。
如何にいかりや長介が「音楽を売りにしよう」と考えていたかの証拠です。
コント自体も「わかりやすさ」に徹した。けして小難しくないコント。舞台も学校や長屋などの誰でも知ってる土着的な場所をメインに、サラリーマンコントでもクレージー的な洒落た感じにはせず、古びた感のあるオフィスを舞台とした。
もちろん動きの笑いも重視した。子供でも、初めて日本に来た外国人でも、みな同じように笑える。
いかりや長介は「ドリフのコントは子供に向けて作ったことは一度もない」と常々語っていましたが、単純明快さは常に追い求めていた。その結果、子供向きと思われ、心ない一部の人たちからは「ドリフの笑いは幼稚」とまで言われてしまったのです。
視聴率は取るが評論家からは相手にされない。幼稚な子供向きのコメディチーム、それがドリフターズだと。
しかしドリフに辛辣な評価を下す人たちは、まともにドリフターズのコントを見たことがあるのだろうか。
アタシもずいぶんクレージーやエノケンを見たけど、彼らと比べてドリフターズのレベルが低いなんてまったく思わない。むしろ安定して、数十年に渡って笑いを提供出来たドリフターズの方がすごいんじゃないかと思うこともしばしばなのです。
ひと口に「ドリフの笑いはわかりやすい」、これは同時に馬鹿にされやすいことでもあるのですが、そこも疑問がある。
たしかに表層はわかりやすい。それは否定しない。何しろいかりや長介が一番のお手本にしたアボット・コステロ自体がわかりやすいんだから、わかりやすくなって当然です。
しかし彼らがやっていたのはわかりやすいことばかりではない。何より一番の軸は「人間関係の笑い」なのです。人間関係の笑いなんて、ある程度社会経験を積んでないと噛み砕けないものであり、わかりやすいとは到底言えない。
ただし、人間関係の笑いは必ずしも目立つ必要はない。気づかれなければそれでもいい。とくに気づくわけがない子供や外国人にはちゃんとアボット・コステロ直系の動きの笑いがあるんだから。
アタシはむしろ、ドリフが幼稚と言ってる人が一番幼稚だと思う。
社会経験がないと気づかない人間関係の笑いに気づいてないんだから、つまり笑いの感性が幼いとしか言えないのです。
十字架と言えるほど重たいものだったのかはわからない。しかし音楽も笑いも四流と自認するいかりや長介は桜井輝夫からリーダーの座を譲り受けた。
任された以上はやる。最低限メンバー全員が食っていけるようにする。
しかしそんないかりや長介に光明が差したのは、幼少期に浴びるように見たアメリカの喜劇映画や、父親に連れて行ってもらったというシミキン(清水金一)の舞台こそ、我が財産であるということに気づいたからです。
彼らがやっていた人間関係の笑いをドリフターズのメンバーに当てはめて再構築した。当時はそんな笑いをやってる者はおらず、結果として突出した存在になることが出来た。
評論家から無視される中で、視聴者だけが彼らの味方だった。「評価されたいんじゃない、ただ目の前の人に笑って欲しい」という考えは、本人の意識とは別に彼らを四流から一流に引き上げたのです。
いわば「人の目に晒され続けることによって、大きく成長した」と言えるわけで。
フィットネスクラブや美容室がガラス張りなのは、人の目を気にすることによって、より外面に磨きがかかるからだと言われています。
若い頃のいかりや長介はゴリラだのグロテスクだのいろいろ言われたけど、晩年になるに従ってシブい、カッコいいオヤジになった。あれも人目に晒され続けたからだと思う。
そりゃあ度が過ぎたらマズいけど、適度な他人の目は人間を内面的にも外面的にも成長させるのに不可欠なんです。それをいかりや長介は教えてくれた。
明日をも知れぬ四流コメディアンたちは、時間の経過とともにチームとしてのアンサンブルもとれた歴代でもトップクラスのコメディアンに成長した。技術でも何ら引けを取るところがない。まごうことなき一流になりおおせたのです。
つまりいかりや長介の軌跡、それは四流から一流へのビルドゥングスロマンとも言えるのです。