ナニワの演芸に片足を突っ込みかけた頃
FirstUPDATE2005.1.22
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「あの、もし良かったら、一本ネタを書いてくれませんか?」

「冗談やないです。漫才のネタとか書いたことないし、自信とかまったくありません。というか、オタクらのネタもあの時観ただけですし」

「それやったら浪花座に来てください。(タダで)入れるようにしておきますから。それで、書いてもいい、と思えるなら、ということにしておきます」


 こうした会話をしたことは事実ですが、何しろ1990年前後の話なので正確ではありませんし、会話の主、ひとりはアタシですが相手の漫才師の実名を挙げるわけにもいかない。もうコンビは解散してるとはいえ何らかの迷惑がかかってもいけないし。
 そもそも何でこんな話になったか、そうなるまでの経緯をせっせと書いていきます。

 アタシはせっかく大学に合格したものの、一年間はほとんど学校には行きませんでした。ひとり暮らしをはじめたことで本性の堕落さが顔を出したわけで。
 そんなアタシを「やっぱり大学に行かなきゃダメだ」と思わせたのは、いやこの言い回しは嘘だな、正確には「やっぱり友達を作るなりして人とつながっておかなきゃダメだ」と思ったのは<笑い>に取り憑かれたからです。
 「4時ですよーだ」をはじめとする、当時新進気鋭だったダウンタウンの<笑い>、「鶴瓶上岡パペポTV」における掛け合いの<笑い>、パソコン雑誌「ログイン」に内包されていたアカデミックな<笑い>、それらに淫したアタシはいつしか「自分も笑いを発信する人間になりたい」と考えるようになったのです。
 しかし誰とも会わず、ひたすら孤独な生活を続けていたのでは発信側には周れない。まだインターネットなどない時代です。<笑い>を発信したければ、それは人の輪に入っていかなければいけないということになる。
 だったら大学に通って、テキトーなサークルに入ればいいんじゃないか、という思考に至ったわけでして。

 もうちょっとワタクシ事を続けます。
 目論見通り、大学に通うようになり、サークルにも入り、ついでに「恋」までした。結果はフラれることになったわけで、これは人生で初めての失恋ということになります。
 何しろ初めてです。失恋の痛手をどう癒やせばいいのか、皆目見当がつかない。音楽?音楽はダメなんですよ。少なくとも歌謡曲(今のJ-POP)に類する曲なんて恋愛の歌ばっかりだからね。
 そんな時レコード屋で「ハナ肇とクレージーキャッツ」のカセットテープを見つけた。
 高校時代に見た「ニッポン無責任時代」が面白かったことを思い出したってのもあるけど、それより、たぶん「スーダラ節」とかそういうんでしょ?つまりは、コミックソングってことは、おそらく歌詞の中にも恋愛要素がないだろうし、失恋の痛手にちょうどいいんじゃないか、と思って買い求めたのです。

 そしてアタシはいつしかクレージーキャッツ、ひいては植木等に激ハマりした。この人たちは本当にすごいと。
 とくにすごいと思ったのは歌詞で、誰が作詞かというと、青島幸男だという。青島幸男?あの「いじわるばあさん」の?
 青島幸男はクレージーキャッツの座付き作者のような存在だってのもわかった。そして「シャボン玉ホリデー」などの番組で放送作家をやっていたという。そうか、こういう道があるのか。
 青島幸男に憧れたアタシは、自然と「放送作家になりたい」と思い始めていたんです。ま、正確には「まずは放送作家からスタートして、ゆくゆくは青島幸男になりたい」っていう手始めのニュアンスが濃かったんだけどさ。

 しかしただの大学生だったアタシに業界のコネなんてあるわけがない。しかも大学も居住地も大阪です。憧れの「東京の放送作家」からは遠すぎる。
 ちょうどそんなタイミングだった。どういうきっかけだったかは忘れましたが、とにかく「定期的にやってる落語会でスタッフを募集している。ギャラはないけど、その後の飲み会がタダになる。やる?」と。
 主宰していた噺家さんにはあまり興味がなかったけど、まァ、これで業界と接点が出来るかもしれないと思ったアタシは受けることにしたんです。
 このイベントっつーか落語会の名称は「雀三郎製アルカリ落語の会」。ちなみに雀三郎製と書いて「じゃくさんせい」と読みます。って名前からもわかるように主宰していたのは桂枝雀の弟子である桂雀三郎です。
 桂雀三郎はのちに「ヨーデル食べ放題」という、まァいやコミックソングを小ヒットさせましたが、全国的にそこまで知名度が高いわけではない、と思う。って失礼かな。

 しかしアタシは、先ほども書いたように桂雀三郎に興味がなかった。もっとはっきり言えばそこまで面白い噺家だと思ってなかったんです。
 一方、この落語会でほぼレギュラーで出ていた、同じく桂枝雀の弟子の桂雀々は本当に面白かった。とにかく出囃子に乗せて現れる瞬間から面白い。
 アタシはその前から「歌って笑ってドンドコドン」というラジオ番組を聴いており、上岡龍太郎のサブで喋っていた雀々はそんなに好きじゃなかったんです。
 ところがナマで観たらこんなおかしい噺家はいない、と思えるほどの<フラ>があって、アタシはイッペンでファンになった。
 ところが肝心のっつーか主宰者である雀三郎は、何度観ても、そこまで面白いとは思えず、何とも言えない気持ちだったことをはっきり憶えています。

 その日、は突然やってきた。あんまり面白くないはずの雀三郎が急に面白くなった。素人のアタシには何が違うのかわからない。何しろ彼が主宰する落語会なのでそれまでもウケてはいたけど、ウケ方が違う。
 こんなことを書くと「感情移入してそう感じられただけだろ」とか「たまたま調子が良かっただけ」とか「見慣れたことで細かい面白さを感じられるようになっただけ」とか思われるかもしれません。もしかしたら本当にその通りなのかもしれない。
 けどアタシは今でもあれは「芸人が脱皮した瞬間」だったと思っている。もしそうだとするなら、その場に立ち会えたことは非常に幸運なことだったな、とね。

 この落語会は毎回ゲストを複数呼んでおり、噺家だけでなく漫才などの色物芸人もゲストで出ていました。
 そんな中、何度かゲストで呼ばれたのが早逝したテントで、もうこの人ほど「カルト芸人」という呼称がふさわしい人もいない。
 テント。旧芸名は大空テント(旧旧芸名は「川上こける」だったらしい)ですが、上岡龍太郎の弟子であるにもかかわらず師匠とはまったく芸風が違う。とにかく唯一無二の芸風で、いわゆるスベリ芸ともまた違っていて、如何とも形容し難い独特のネタをやっていました。
 アタシは正直、テントという芸人が嫌いだった。雀三郎の場合は「あんまり面白くない」くらいの感じだったけど、テントはもっとはっきり「嫌い」と言い切れるくらいだったんです。
 何が嫌いといっても、あそこまでわざとらしくキャラクターを作っているところで、何つーか、たぶん普通の人なのに奇人ぶってるのに腹が立っていたんです。

 ところがこの落語会の手伝いをして、イメージが変わった。とはいえネタそのものはテレビで見ようがナマで観ようが一緒。では何が違ったか。
 その日もアタシは会場のセッティングをやってました。っても椅子を並べたりするくらいだけど。
 とりあえず会場の準備が終わってね、じゃあ今のうちにメシでも食っておくか、と他のスタッフたちとうどん屋か何かに入ったんです。そこに何故か、その日のゲストだったテントもいた。
 うどん屋に入ってからテントはずっと喋ってる。誰に、とかじゃないんです。というか誰もテントの話なんか聞いていない。誰も相槌さえ打たない。なのにそんなことはお構いなしにテントは喋り続ける。誰かと喋ってるかのような声の大きさで。
 アタシを含めてみんな、黙々とメシを食い、そして食い終わった。さあ、行くか、という段になって突然テントが叫んだ。
 
「あっ!オレ、まだ箸も割ってなかった!」

 これでもう、はっきりわかった。テントはキャラクターなんか作ってなかった。あれがこの人の「地」だった。
 こういう人を変に批判的な目で見るのは違うなぁと思い始めてね、その日の舞台は「今日はなるべく先入観抜きでテントを観る」と決めたんです。
 すると、何でこんなに面白いんだろうってくらい面白かった。腹を抱えて笑うとはまさにあのことで、くしくもテントの師匠である上岡龍太郎がこんなことを書き残しています。

(前略)テントの舞台をはじめて見たんです。ぼくとしては、「まあなあ、昔こういう芸人おったんやなあ。シラこい洒落ばっかり言う芸人で。(後略)」(中略)「(前略)俺、こんなやつ一番嫌いや」と思いました。(中略)で、しゃべり出したらね、これがもうハマってしもうた。もう腹痛とうて。人生の中でね、指折り数えるくらい笑うた。絨毯の上へ寝ころんで笑いました。
(上岡龍太郎著「上岡龍太郎かく語りき」より)


 そうそう、ここまでまだ「イベント終了後の飲み会」について書いてませんでした。
 場所はたしか、旧うめだ花月向かいの百番が多かったかな。そこで雀三郎を中心に打ち上げが行われていました。
 飲み会の時、雀三郎はギターを手放さなかった。彼は心から音楽が好きな人でした。つまりこの頃から「ヨーデル食べ放題」の下地はあったっていう。
 飲み会には上方の創作落語の作家だった小佐田定雄や、もうひとり女流の創作落語の作家の人も参加していた。
 しかしどうしても、その女流の人の名前が思い出せない。たしか桂あやめの創作落語を作ったりしてたはずだし、ネタはいくつか思い出せるし顔もうろ覚えだけどわかる。とにかく名前だけが思い出せない。
 あ、ちなみに「くまざわあかね」氏ではありません。

 しかしアタシは、ただ飲み会に参加してただけで、たいして「業界とコネクションがありそうな」人と話が出来たわけじゃなかった。はっきり言えばかなり所在ない感じで座っていただけです。
 ある日の飲み会もそんな感じだったんだけど、アタシと同じく所在ない感じの人たちがいた。その日のゲストだった松竹芸能所属の漫才師の人たちです。
 お互い話す相手もいないので、何となく言葉をかわした。そして何故か「漫才論」みたいな話に発展したんです。
 たしかにその人らは売れてるとは言い難かったとはいえプロの漫才師です。一方アタシはズブの素人。よくもまあ大胆にそんなことが語れたと呆れかえるけど、まァ若気の至りですな。
 一応その人らと連絡先の交換はしたけど、その日はそれで終わった。ま、自分としては「今日はちょっと話が出来たな」くらいの満足度で家路に向かったわけで。

 それから数日して、電話が鳴った。あの日、ド素人のアタシと漫才論を戦わせた例の漫才師からです。
 会話の内容は冒頭に書いた通りですが、正直アタシは相当困惑した。
 漫才の台本なんか書けるわけがない。そう思いながらも、アタシはひとつのことを思い出した。青島幸男が初めて業界とつながったのがリーガル千太・万吉の漫才の台本を手掛けたことだと。
 それを考えると浪花座に向かわないわけにはいかなかった。書けるかどうかわからないけど、とにかく、まずは行くしかない、とね。

 結論からいえば、アタシはこの漫才師用のネタを書くことはありませんでした。
 何故書かなかったのか、その理由のひとつに「とにかくこのコンビのネタが難しかった」ってのがあります。
 このコンビはボケが強烈なボケで、ツッコミは二枚目で、どちらかというとソフトな感じです。こういうコンビのネタを書くには当時のアタシの技量ではどうしようもなかった。今にして思えばどうとでも出来たんだけど、当時のアタシはまさに途方に暮れてしまったんです。
 それに、一番アタシの中で引っかかったのは「ナニワの演芸」という独特な空気でした。
 浪花座に行ったからには、当然無謀にもアタシにネタ執筆依頼をした漫才師以外のネタも見ることになります。浪花座は完全に演芸専門の小屋だったから、どんどん色物芸人が出てくる。
 しかも吉本興業ではない。松竹芸能所属の人らです。正直、あまりテレビで見る機会のない人ばかり。
 誤解されては困りますが、面白いかつまらないかでいえば十分面白かったんです。しかし、どうも、これは違う。この世界は自分が入りたい世界じゃない。そう強く思うようになっていった。

 当時アタシが魅せられていたのは「音楽と笑いをモダンにパッケージングした」クレージーキャッツであり、シュールかつカッコいい笑いだったラジカル・ガジベリビンバ・システムや、ほぼ劇場でしかやらないダウンタウンのコントです。たしかに「鶴瓶上岡パペポTV」も継続して見てたし面白がっていたけど、パペポでさえ浪花座と距離がありすぎる、と。
 もしかしたらものすごく不遜な考えだったかもしれません。何しろアタシはただのド素人だったんだから。
 でももう、ナニワの演芸にこれ以上接近するのは止めよう、と思った。間違っても嫌いな世界ではないけど、一生を捧げるほどの魅力を感じなかったんだから、もうこれはしょうがない、とね。

 それから二年ほど経った頃です。
 大学の後輩の女性から電話がかかってきた。彼女は「松竹芸能」ではなく「松竹」に就職していました。
 彼女はある打診をしてきた。

「松竹新喜劇で座付き作者の下積みをする人を探している。もし良かったらどうですか?」

 何故自分に?と思ったけど、よくよく考えたらアタシは周りに散々「青島幸男(のよう)になる。まずは放送作家になる」と言いふらしていたので、彼女もアタシのその言葉を耳にしていたのでしょう。と考えると何ら不思議なことはない。
 もちろんアタシはその場で断った。理由は先述の通りだけど、これも今考えると相当もったいない話で、松竹新喜劇ってことはまだご存命だった藤山寛美に会えたってことになるわけだから。
 天才喜劇役者・藤山寛美との会話が実現していれば、この文章ももっとインパクトが付いたのに。ってその程度の話かよってことですが。

 まァサイトのネタ云々は冗談だけれども、もしあの時漫才の台本を引き受けていれば、今は鬼籍に入られた芸人の人らと話す機会もあったろうし、もちろんそのうち松竹芸能の人たちだけでなく吉本興業の芸人とつながる機会もあったと思う。それはかなりの財産になったはずだから。
 それよりも一番失礼なのは、ド素人のアタシに執筆を依頼した漫才師の人たちにたいしてですよ。たぶんコンビ間でいろんな話し合いをした上で、あの大学生に書いてもらおうとなったはずなんです。それを無碍に断るなんて、アタシはいったいどれだけ不遜な人間だったんだろうと。
 結果として彼らが売れたのならまだアタシも救いがあるけど、そうはならなかったんだから、今でもこのことを思い出すと胸がチクッと痛む。申し訳ないことをした、と。

 それも人生、と言ってしまえばそれまで。しかし、もうちょっと身の振り方を考えても良かったかも、と思ってみたり

本当は2007年までやってた第一次yabuniramiJAPANの切り札的ネタとしてとってたんだけど、更新停止しちゃったので途中までしかコトの顛末を書けなかったんです。というか元ネタもあくまでテント(上岡龍太郎の弟子のカルト芸人)の話が中心だし。
正直もういいかな、と思っていたのですが、やっぱどうにもモヤモヤするので15年の時を経て「ちゃんと」書いてみましたが如何でしたでしょうか。




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